鈍角で隣合うテーブル

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今回のテーマは「食卓」ということでダイニングテーブルについて書きたいと思います。

三角テーブルの家と名づけたこの住宅(実際には台形ですが)は、諸条件の関係であまり広くダイニング空間が確保できず、家族全員が座れる大きさの四角のテーブルはうまく置けない状況でした。

そこでテーブルを変形台形で計画することにしました。台形のテーブルは隣の家族とは鈍角で隣合うことになり、真横でも対面でもない緩やかに隣り合うことになります。長い時間座っている場合その距離感のほうがいいかと考えまして設計しました。

また、お母さんがキッチンのシンクに立ちますとちょうど円を描くような配置になり、家族がつながったような位置関係になるのもよかったかなと思っています。

こんなテーブルいかがですか。

築地市場

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先日、近くに行く都合がありまして初めて築地市場を散策しました。

土曜日ということもあり場外は歩くのもままならないくらいたくさんの観光客で賑わっていましたが、逆に場内は落ち着いている時間帯でした。メインの扇型の建物の脇にある「魚がし横丁」という一角に足を運びました。
基本的に一般客が利用するエリアでなく買出しの方などプロが利用するエリアで、業務用の調理器具や雑貨、調味料などが売られてています。所狭しと商品や箱が積んであり、昔から店構えが変わっていないような、まるで台湾の夜市にような雰囲気のある路地でした。近くこの市場がなくなってしまうと思うとさびしい気がします。ノスタルジックな気持ちになったので、あえてお寿司でなく昔ながらの醤油ラーメンをいただいて市場をあとにしました。

​​​​​​北斎のクロッキー

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​本ブログの今月前半のお題は「趣味」。

趣味の王道ではありますが絵画鑑賞をときどき楽しんでまして、先日のすみだ北斎美術館にお邪魔したときの話です。常設展示に「北斎漫画」が展示されてまして初めて実物を拝見しました。

北斎漫画とは人、動物、植物、文化風俗、風景など様々な世の中の要素を描いた北斎のスケッチ集でして、その中に西洋絵画で言うところのクロッキーがありました。私がクロッキーをする理由は骨格や筋肉を意識してモノの本質を捉える練習でして、デッサン力をつけるという言い方をしたりします。

北斎の人物スケッチ(下の写真)を見ると骨格、筋肉の描写が正確なので高いレベルのデッサン力があることが分かります。

ところが、別のクロッキー(下の写真)では具体的なモチーフを一旦単純な図形に置き換えてグラフィカルな2次元に解釈することを説明しているように見えます。このようなアプローチのクロッキーは見たことがなかったので驚きました。

北斎が西洋絵画的なデッサン力を習得しているにも関わらず、なぜ敢えて本質を無視した平面的な捉え方をする手法をとるのでしょうか。その理由は分かりません。

明治以前、西洋絵画が入ってくる前の日本の絵画は建物の遠近やパースが整合していない平面的なのが特徴と言われます。つまりデッサン力が低い絵という意味です。

今回、北斎のクロッキーを見ての推測ですが、当時の絵師達は実は西洋的なデッサン力がなかったのではなく、敢えて本質を消して平面的な表現をしてしたのではないかと。浮世絵でみられる独特な平面構成的表現を選んだ理由は何なのか。

これはロマンですね。今後調べたいと思います。常設展の最後に超リアルな蝋人形が突然現れますのご注意。以上趣味の話でした。

スカイツリーからの眺め

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先週末、東京スカイツリーの麓を訪れました。今回は見送ったですが以前に登ったときの感想を少し述べたいと思います。

スカイツリーの展望台からの眺めは今まで経験した高所からの風景とはちょっと違ってました。電波塔や超高層ビルからの眺めはなんとか人の形が認識できて人々の生活を上から俯瞰できるイメージで、航空機の窓からの眺めは地形図のような客観的な眺めになります。スカイツリーの地上350mとなると自動車が辛うじて見える程度でリアルな生活はあまり見えなくなりますが、地形図としての眺めまでではない中間的な風景になり、建物が集合体として見え、その集合体の大きな流れが見える、そんな絶妙な高さにように感じました。

この360度パノラマからみる無数の建築群は40年もあれば殆どが建て替わることになると考えると、この集合体はゆっくりと動く大きな生き物のように思えてきます。 私はその建物を設計する立場で、この大きな集合体のほんの小さな一片にしか関わることができていませんが、逆の言い方をすればこの大きな流れのひとつに参加することができる立場とも言えます。

今回は自分の仕事をかなり高い位置から俯瞰して見たことは色々なことを考えることができる大切な経験になりました。

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姪の夢

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「夏の思い出」をお題に投稿してみようということになりまして、まずはわたくし市川から印象に残ったことを書いてみます。極めて私事ですがご了承下さい。

実家に帰省しまして、私の兄弟や元気な甥や姪たちといつものお盆を過ごしました。8月生まれの小学校高学年になる姪への誕生会開催もいつもの風景で、叔父として「将来に何になりたいの?」とごくありふれた質問をしました。

その答えが「建築家!」。

しかも、アツシおじちゃんの会社に入って勉強したいと言うのです。これにはドギマギしました。さらに、スマホ等で検索して私の仕事もチェックしてくれてました。

だた、社員がたくさんいる会社の社長ということになっていて、夢を壊さないよう事実を正確に説明するのに苦労しました。弟よ、子供たちに兄について正確に教えなさい!

商売は繁盛しているのか?などの親からのプレッシャーより重かったが、さらにがんばらなきゃ、と気持ちをあらたにしたとそんな夏の思い出でした。

 

愛される建築とは

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一年半も前のことになるが三軒茶屋でお芝居を観た。
タイトルは「解体されゆくアントニン・レーモンド建築旧体育館の話」。特に好きな役者さんや作家さんの作品というわけではなくタイトルだけが気になって切符を買った。スケッチは開演直前の舞台。

名建築の保護運動に関わった青春サクセスストーリーかと思ったら、レーモンドの建築は直接関係がなく、若い女性のキャストやスタッフが創ったお芝居で、大学時代の思春期の成長心理を掘り下げたお話。友情や将来の悩みのなかで失うものを消えゆく建築にオーバーラップして描いた内容だった。よって劇中にはレーモンド建築の具体的な意匠や歴史の説明はほとんどない。こんな解説では劇の内容が全く分からないと思うがご了承いただきたい。
ひとつ間違いないのはレーモンドの建築が想い出を内包する器として大切にされていたということだ。そのような建築物は世の中にどのくらいあるのだろうか。建築されてから10年後、20年後、そして解体されるときまで人々に影響し続けて、愛される建築とはどのような建築なのだろうか。簡単に分かる問題ではないが、そのことをちょっとでもイメージして設計することは大切かもしれないと思うのだ。
それにしても三谷幸喜さんやクドカンさんが創ったお芝居を観ることが多く彼らも結構破茶滅茶と思っていたが、20代の若い方の作品は難解で、ついてくのがやっとの状態だった。

「だんだんの家」完成しました!

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この度、北斜面の敷地に家族のつながりをテーマにした「だんだんの家」が完成しました。スキップフロアにすることで、空間を連続させて、家族の気配も感じることができます。オーナーさんのご厚意で見学会を開催しますので是非いらして下さい。私が描いた絵も何点か展示する予定です。

見学をご希望の方はご連絡下さい。地図をお送りします。予約制になっております。
相羽建設

池袋駅

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市川の投稿です。
生活行動範囲の関係で西武線池袋駅を利用することが多い。
主要都市の駅ホームは駅ビルの1階になることが多く
太い柱が並んでいて、なんとなく閉鎖的なイメージがある。
ところが当該ホームは一部天井が高くボールト屋根になっている。
テレビでみるヨーロッパの駅にちょっと似ている。
夕刻の逆光をパチリ。

舞台美術について

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市川の投稿です。
少し前にお芝居を見に行ってきました。渋谷の劇場で行われた舞台で脚本が宮藤官九郎さん、演出が河原雅彦さんという最強タッグ。このふたりが関わるお芝居を見るのは初めてで、ある程度覚悟はしていましたが、想像以上にブッとんでいました。特にクドカンはあまちゃんのイメージがあったのでそのギャップに唖然としました。
あらすじは割愛しますが、実話の連続殺人事件をモチーフにしてまして、夏帆さん演じる清楚な少女が実は黒幕で、電気ショックで次々に人を殺し、死体をバラバラにするのです。それを、ギャグをはさみつつ臓物を手に持って全身血だらけでどこかの大学の大根踊りさながらミュージカル風に楽しげに踊るのです。場内は大爆笑。わけわりません。興味のある方は是非DVDを見てください。
前置きは長くなりました。そんなわけで時々お芝居を見に行くのですが、舞台美術を見るのがひとつの楽しみになっています。そのお芝居の舞台の雰囲気づくりは舞台美術で決まるわけで歴史もののお芝居ならその当時に観客がタイムスリップして覗き見しているような錯覚が起きます。

精巧につくられた舞台美術にいつも関心するのですが、私が設計する建物とは当然目的が違っていて、あくまで演出の一部なので、観客が見やすいように床は客席側に勾配があったりします。窓も当然景色見るものでなくて、窓が次の場面では絵の額になったり、暗転したかと思うと拘置所の面会窓になっていたり、舞台という限られたスペースでいろいろな場所を表現するためにいろいろ工夫されています。建築の常識とは全く違った世界を見ることができるのが本当に楽しいです。
建築の設計とは全く目的は違うので応用することはできないと思いますが、もしかしたら何かのヒントになるかもしれないと舐めるように舞台の隅々まで眺めるのでした。

白熱電球は生存可能!

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市川の投稿です。
先日、大学時代の後輩が事務所に訪ねてくれました。建築学科の後輩でありサークルの後輩でもある彼は照明空間のデザイナーをしています。器具のデザインではなく、照明計画が専門で、店舗、オフィス、住宅など用途は問わず計画しているそうです。

久しぶりの再会だったし、後輩が訪ねてくれることもない私は嬉しくなって昼食をおごったりして先輩面してみました。といっても安いラーメンでした、後輩君ごめんなさい。そんな状況で照明業界のことや、計画のノウハウなどなどいろいろな話ができました。

その話のひとつを紹介したいと思います。
照明器具には白熱球、蛍光灯、LEDなどの電球の種類がありますが、昨今の省エネ志向やコスト、取替え頻度などを理由に白熱球は絶滅危惧種になってLEDが主流になりつつあります。

でもやっぱり白熱球の持つ演色性(色の再現性)や目への優しさは捨てがたい魅力であります。同じ色温度に設定されているLEDと白熱球で比べると、照らされたお料理の美味しく見える度合いは全く違いますよね。LEDは蛍光灯のように認識できない速さて点滅しているので目は疲れるそうです。

「やっぱり白熱球はなくなっちゃうのかな?」という私の問いに意外な答えが。「そんなことはありません。うまく使えば劇的に寿命が延びますよ。」

どういうことかといいますと、白熱球の照明器具に調光器を取り付けて常に80パーセントぐらいの出力で使い続けると寿命が十数倍になり数年は切れないそうです。食卓のペンダントに100W球を設定してちょっとだけ絞って使うなど。高い演色性が必要なリビングや食卓だけに限って白熱球を設定すればそんなに電気代もかからない、という説明をすれば住まい手さんには納得してもらえるとの話でした。

なるほど、なんとなくヒカリがみえました。まだまだ白熱球は生存可能かもしれません。今のうち100円ショップの白熱球を買いじめするしかないかな。